第61回 小説でもどうぞ 応募作品 お題は「禁止」⇒ 落選
「ちょっと、聞いて。マコ…じゃなくて、社長が、今日から『社長』と呼べって」
美香さんが、ため息をつきながら、昨日の運営会議の議事録をぽんと机に放った。陽子は議事録を取り上げて、役職で呼ぶように、と書かれた決定事項を眺めた。
ふーん、シマ子の発作か。
陽子は、半目になって、ドライアイスのような白い息をついた。その時のひらめきと感情が、そのまま経営方針になる。いつものことだ。
「美香さんを主任って呼ばないといけませんね」
美香さんはてのひらを天井に向けて、やれやれといった顔をした。
陽子は三十年ほど前、社会人になった日のことを思い出していた。
九十年代初め、就職氷河期の一歩手前で、陽子は大企業に滑り込んだ。入社式はリゾートホテルのホールだった。三百名を超える新入社員の前で、壇上の社長は、にこやかに宣言した。
「これからわが社は、役職、先輩、後輩にかかわらず、社員同士を『さん』と呼び合います。新入社員のみなさんも、私のことを『山下さん』と呼んでください」
社内には『さん付け運動』のポスターがあちこちに貼られていた。陽子は一度も目上を役職で呼ぶことなく、この会社で何年も過ごした。それから、いくつかの職場を通り過ぎ、これからは穏やかに働きたいと、二年前、この会社に就職した。
社長の押田シマ子は、定年を待たずに退職し、この会社を立ち上げた。今年、七期目を迎える。
事務所の片隅での面接のあと、シマ子は陽子に
「わたしのことは『マコさん』って呼んでね。みんなにもそう呼んでもらっているの。会社は家族みたいなものだから」
と、朗らかに言った。
何かあったらわたしに言ってね、と、シマ子は続けた。その目が笑っていないことに、陽子は気づいていた。じわりといやな感じが背中を走り、陽子のなかでピコーンと警戒音が鳴った。
「はい、マコさん」
陽子は口角だけを上げて応えた。
マコか。陽子はリゾートホテルのホールで隣りに座っていた眞子を思い浮かべた。そして、こころの中では『はい、シマ子さん』と、返事をした。
働き始めて間もなく、シマ子のいない昼休みに社員たちが、
『押し出しマコ』
と、呼んでいるのを聞いた。皆、親しげにマコさんと呼んでいるのだと思っていた。でも、そうではなかったらしい。
「マコさんは押しが強いからね。人の話は聞かないし、いつも自分の考えを押し通すんだよね。反対意見を言えば、謀反だって騒ぐし」
陽子は一瞬、箸を持つ手を止めた。しかし、美香さんは、何でもないことのようにさらりと言って笑った。
「いままで何人も、マコさんの押しについて行けなくて、辞めてる。だから、『押し出しマコ』」
確かに、設立当初から残っている人は数えるほどもいない。『マコ』という呼び方も、本人がシマ子という名前を嫌って、そう呼ばせていたのだと知った。
わたしだけがびっくりしてる、と陽子は思った。
時が流れ、今年も立秋を過ぎたころ、シマ子は新部署を立ち上げた。事務所も借り、社員も増えた。
「従業員はみな、新部署に携わるように」
と、シマ子は通達したが、陽子たちはその業務の詳細を知らない。シマ子ひとりがウキウキしている。ある日、陽子たちの事務所に来たシマ子は、
「ここは、フリーアドレスにして、デスクは新事務所に移動します。あなたたちは外に出ていることが多いからいいわよね。全員、今週末までに引き出しを空けておいて」
陽子の目は見開いたまま、固まった。唖然としている社員たちをしり目に、シマ子は出て行った。
美香さんは、困りますとシマ子に交渉したが、話にならなかったという。それどころか、私服で勤務しているのだから要らないだろうと、ロッカーまで持ち出そうとしていた。
「かろうじて、ロッカーは死守したんだけどさ。マコさん、いきり立っちゃって」
事務所の真ん中に据えられた会議テーブルで、ほおづえ姿の美香さんはため息をついた。
陽子は、必死で自分たちのロッカーにしがみついている美香さんの背中を想像した。
シマ子は社員をなんだと思っているのか。
陽子は口から煙を吐きそうだった。
それから数日後、全体会議が開かれた。その席でシマ子は、
「これからは、わたしのことは『社長』と呼ぶように。ほかの人たちも役職名で呼ぶこと」
さらに、
「名前で呼ぶこと、ちゃん付け、ニックネームも禁止します」
と、付け足し、
「ここは会社ですから」
と、言い放った。
新部署の開設にともなって、新しい人が何人も採用されていた。彼らは皆にならって『マコさん』とシマ子を呼んだが、新人からそう呼ばれることに、シマ子は違和感を持ったのだった。
社員は家族と言っていたのは誰だったか。陽子の目は、どこか遠くを見ていた。
「鈴木事務局長、と言いなさい」
美香さんは、事務スタッフをいつものように、さん付けで呼んだ。それを、シマ子が咎めた。美香さんも、鈴木さんも、ひょいと肩をすくめて、ちらっと舌を出した。
当のシマ子は、昔なじみのお気に入りの社員を、
「はなちゃん、ちょっと。」
と、学生時代のニックネームで呼んでいる。
シマ子は禁止の外にいた。シマ子はやはり、シマ子だ。
呼び方なんて、もう、どうだっていい。
陽子は眞子に会いたくなった。入社式で出会った親友。今は海外で活躍している。陽ちゃん、今度のクリスマスに遊びに来て、と言っていた。
そうだ。休暇を取ってしまえ。眞子に会いに行こう。陽子はパソコンを開くと、迷わず年末の休暇申請フォームを入力し、理由には『私用』とだけ打ち込んだ。
カチンと送信をクリックすると、ふっと、いたずらっぽく笑った。
クリスマスは、海の向こうで本物の眞子と一緒に乾杯するのだ。
