第18回 W選考委員版 小説でもどうぞ 応募作品 お題は「奇跡」
「わあ、おかあさん、初めてのマスカラだね」
ぎこちなく化粧を施すわたしの背後から、寂しそうで、どこか嬉しそうな声がした。
この部屋でサトさんと出会ったのは、わたしがこの仕事を始めてまもなくのことだった。春のただなか、落ち着かない気持ちのまま、庭に足を踏み入れると、色とりどりのつつじやあやめが競うように咲いて、わたしを歓迎してくれた。飛び石を踏んで、花のあいだを進む。山の斜面に立つ、木々に囲まれた古いけれどよく手入れされた日本家屋。どっしりした玄関の引き戸をガラガラと開ける感触は、旅館を訪れたときのよう。サトさんは、人生のほとんどを、この家とともに暮らしてきた。今は、庭に面した、床の間のある和室の介護ベッドの上で、庭をながめるだけの日々を送っている。
この前の冬、サトさんは庭の手入れをしているときに転んでしまった。それ以来、外に出ることはなく、ベッドから離れることも、ほとんどない。
サトさんを訪れるのは、いつも午前中だ。
「おはようございます」
部屋に入ると、サトさんはわたしを見て小さく会釈し、
「おはようございます」
と、にっこり微笑んだ。
「これからお体を拭いて、お着換えしますね」
障子を閉めると、和紙に透かされた柔らかい春の光が部屋を満たした。
季節が過ぎた。庭の緑が色濃くなり、夏をむかえるころ、サトさんは眠っていることが多くなった。挨拶をすると、一瞬、薄く目を開けるが、またすぐに眠ってしまう。食べてはいるが、以前のように
「おなかがすいた」
と、言うことはなくなっていた。そのうちに、お茶を飲み込むことが難しくなり、針をさして水分を補うようになった。百歳に両手が届きそうなサトさんの砂時計は、さらさらとこぼれ落ちていった。
立秋が過ぎてしばらく経った朝、いつものようにサトさんを訪問した。水分はむくみへと変わっていた。帰ってきていた娘さんの同意を得て、わたしはそっと針を抜いた。
昼どき、午後の訪問がキャンセルになったので、他のスタッフの同行訪問をさせてもらおうか、と考えていると電話が鳴った。
「母の息が止まりました」
娘さんからだった。
「わかりました。すぐに伺います」
エンゼルケアはまだ見習い程度でしかしたことがない。午後に訪問がないのはわたしだけだ。ひとりで行くしかなかった。
お小水の管を抜き、サトさんの身体を清め、髪を洗った。管の入れ替えのとき、すごく嫌がっていたな。思い出すと、こころがチクリとした。娘さんが用意してくれたベージュのブラウスとパンツを着たサトさんは、もう寝たきりの人ではなかった。
それから、てのひらに汗を感じながら化粧道具を手に取ると、娘さんや訪ねてきた人たちの見守る前で、わたしは、はじめてひとりで、旅立つ支度のお手伝いを始めた。
愛用していた口紅のありかを、娘さんに尋ねると、
「母は日焼けどめを塗るくらいで、お化粧なんて、ほとんどしたことなくて」
と悲しげに微笑んだ。
野良しごとに精を出し、誰よりも働き者だったというサトさん。
わたしは、
「そうですか」
と、答えると、 そうっと、うっすら、さりげない色の紅をえらんでさした。
静かに閉じた瞼にやさしくアイラインを引き、まつ毛にマスカラをつける。たくましい女性のおだやかな寝顔。サトさんのはじめてのマスカラ。
「前みたいな、いつもの顔に戻ったね」
娘さんの安堵のことばに、わたしも肩のちからが抜けた。
痛い処置もあった。それでもいつも、ありがとう。と、にっこり微笑んで見送ってくれたサトさん。初めてひとりで施したお化粧があなたで良かった。そう、心のなかでつぶやいた。
すべての支度が整うと、もうひぐらしが鳴き始めていた。
「ありがとうございました」
車まで見送りに来てくれた娘さんが言った。
「いいえ、こちらこそ」
「なかなか来られなかったのに、亡くなる日に家にいることができたなんて」
娘さんは涙ぐんだ。それから、
「実は、私、おとといの夜、母のところにお迎えが来たのを見たんです」
「お迎え、ですか」
真剣な娘さんの表情に、わたしもすっと顔をあげた。
「夜中に目が覚めたら、母の部屋がぼうっと明るくなっていて、母と仲の良かったおじさんと従姉妹が来ている気がしたんです」
見えないものが見えるたちではないのに、その夜は、サトさんの枕元に二人がいて、じっとのぞき込んでいる様子がわかったのだという。
「だから、不思議と安心で、感謝だなって」
涙をぬぐいながら、娘さんは微笑んだ。
わたしたちの間に、どこからともなく黄色い蝶が現れた。ひらひらと舞いまわり、やがて、サトさんが手をかけた庭の緑の中に溶け込んでいった。
