「都市は自由で、田舎はしがらみが多い」という対比は、単に都市と農村の違いを説明 するものではない。そこには、自由とは他者から干渉されず、自分の意思で選択できる ことだ、という近代的な人間観が潜んでいる。しかし、僕たちの意思や欲望そのものが、 他者や制度、自然との関係のなかで形づくられているのだとしたら、自由を他者からの 独立としてのみ理解することはできない。
「都市は自由、田舎はしがらみ」という近代的な物語
コミュニティということを語る時、よくこの対比が参照される。都市は自由で、田舎はしがらみが多い。だから次世代のコミュニティはその両方のいい点をつまみ取るのだと。
この対比では、都市は個人が自分の生き方を選び、人間関係を必要に応じて選択・解消できる場所として描かれる。一方、田舎は慣習や共同作業、人間関係から逃れにくく、個人の意思より集団の都合が優先される場所とされる。ここでは、自由とは「他人から干渉されず、自分で選択できること」だと理解されている。
問題は、個人をあらかじめ他者から独立した存在として想定していることにある。私たちは何を魅力的だと感じ、何を成功とみなし、何を恐れ、どんな暮らしを望むのか。その欲望や価値観は、教育、貨幣、広告、競争、家族、社会規範などとの関係を通じて形成される。自分の意思で選んでいることと、その意思自体が独立して形成されたことは同じではない。
スピノザから考える「自分の意思」という思い込み
スピノザは『エチカ(生態の倫理)』で、
人間は自分の欲望を意識している一方、その欲望を決定している原因を十分に知らないため、自分は自由だと思い込む
と論じる。
この視点から見れば、都市で「自分の意思で仕事を選んだ」と感じるときにも、何を成功とみなすか、どんな暮らしを豊かだと思うか、何を失うことに恐怖を感じるかといった基準が、社会的な関係によって形づくられている可能性がある。
選択肢が多いことは、それだけで自由を意味しない。たくさんの選択肢のなかから選べても、何を欲望すべきか、何を成功とみなすべきかという基準から自由でなければ、既存の秩序を自分の意思として引き受けているだけかもしれない。
都市と田舎では、拘束の現れ方が違う
都市では、市場、雇用、住宅費、制度、競争、効率性などが生活を方向づける。拘束する相手が特定の誰かではないため、何に従っているのかが見えにくい。田舎では、草刈りや水路管理、祭り、近隣関係などを通じて、互いの期待や義務が具体的に現れる。そのため、田舎の拘束は「しがらみ」として実感されやすい。
しかし、田舎の関係は人を拘束するだけではない。食べ物や労働、技術、ケアを分かち合い、個人ひとりでは維持できない暮らしを可能にすることもある。逆に、共同体が抑圧や同調圧力の場になることもあれば、都市の匿名性が少数者や異なる生き方を守ることもある。だから問うべきなのは、都市と田舎のどちらが自由かではなく、どのような関係が人の行為を制約し、どのような関係がその能力を増大させるのか、ということだ。
関係性は、活動力能を高める
スピノザの考え方では、人間の力は他者との関係によって増大することも、減少することもある。たとえば、ひとりでは耕せない棚田でも、複数の人が技術を伝え合い、道具を共有し、作業を分担すれば、個人だけでは実現できないことが可能になる。関係は、個人が持っている能力を足し合わせるだけではない。誰かの技術や判断に触れることで、自分の認識が変わり、何ができるかという可能性そのものが変わる。
この意味で、関係性は、すでにできあがった個人を外側から拘束するものではない。関係性は、個人が何を感じ、考え、行うことができるかを形づくる。私たちは、まず完全に独立した個人として存在してから関係を結ぶのではなく、関係のなかで個人になっていく。
内山節から考える「個」から「関係」へ
内山節の共同体論を手がかりにすると、人間は関係から独立した個人として存在するのではなく、土地、自然、仕事、歴史、他者との関係を通じて生き方を形づくる存在として捉え直せる。自然は、人間が外部から利用する資源であるだけではない。労働や暮らしを通じて自然と関わることで、人間の生活や価値観そのものが形づくられる。
棚田の維持も、毎年同じ計画を忠実に実行すればよいわけではない。水、天候、担い手の事情は変化する。
その都度、人々が状況に応じて行為を調整することで、その土地に固有の知恵や関係が育つ。コミュニティのプロセスは、目的を達成するための手段であるだけでなく、次の活動を可能にする関係をつくる過程でもある。
ここでスピノザと内山節の議論を同一視する必要はない。両者を接続することで、関係のなかで人間の生きる力が形成されるという問題を、異なる思想から照らし出すことができる。
なぜコミュニティのプロセスは面倒くさいのか
コミュニティでは、何かを決めるにも、他者と調整するにも時間がかかる。目的達成の速さだけを基準にすれば、話し合い、意見の衝突、合意形成は余計なコストに見える。だが、その過程で互いの事情を知り、技術を学び、これまで見えなかった問題に気づき、次に協力できる関係が生まれることもある。市場が目的達成のためにプロセスを短縮するのに対して、コミュニティではプロセスそのものが関係を育てる。
私たちは、成果に直結しない時間を無駄とみなし、自分の意思で素早く決定できないことを不自由と感じやすい。しかし、自分の思い通りにならないことと、自分の活動力能が減少することは同じではない。他者の異なる意見によって認識が変わり、自分の計画を変えることで、ひとりでは実現できなかったことが可能になる場合もある。
もちろん、長い話し合いが常によいわけではない。負担が一部の人に偏るプロセスや、権力によって結論が決まっているだけの話し合いは、人の活動力能を損なう。重要なのは、プロセスが短いか長いかだけではなく、その過程が参加する人たちの能力や関係を豊かにしているかどうかである。
成功のモデルが唯一の正義になる
課題設定、最短経路、効率、成果測定の論理は、特定の仕事では有効である。問題は、その論理が地域活動、子育て、農業、コミュニティづくりにまで広がり、あらゆる活動を裁く唯一の尺度になることだ。成果に直結しない話し合いや、遠回り、関係の修復は、無駄として扱われてしまう。
高い収入、専門性、経済的成功だけが価値ある生き方とされると、土地を守ること、家族と過ごすこと、地域で助け合うことは、競争に勝てなかった人の代替案として見られかねない。全員が同じ条件でその成功モデルに到達できるわけではないにもかかわらず、特定の条件で成立した生き方が、誰もが努力すれば到達できる標準として提示される。
さらに、その自由を支える家事、育児、社会的基盤、他者の労働は背景に退き、成果だけが個人の能力に帰属させられる。自分の自由を支えている関係を見えなくしたまま、自立と自己責任を万人に要求するところに矛盾がある。問題は効率性や努力そのものではなく、一つの価値基準が、あらゆる生き方を評価する唯一の尺度になることだ。
関係から離れるほど、分断が進むという逆説
人間関係を煩わしく感じると、地域の共同作業を業者に委託し、調整をサービス購入で置き換え、経済力によって生活を個別に完結させようとすることがある。こうした選択自体が悪いわけではない。関係から離れることが必要な場合もある。問題は、関係を減らすことだけが自由の実現だとみなされるとき、互いの能力を高め合う機会や、共に問題を解決する経験が失われていくことだ。
共同で何かを成し遂げる力が弱まると、自分ひとりでは解決できない問題に直面したとき、さらに市場や外部の制度に頼らざるをえなくなる。関係から自由になろうとすることが、かえって自分たちの活動力能を弱め、分断を深めるという循環が生まれうる。
共同体を美化せず、関係を組み替える
関係性が人間を形づくることと、その関係がよいものであることは別だ。共同体には、同調圧力、差別、権力の集中、負担の偏りがありうる。同じ関係が、ある人の活動力能を増大させ、別の人の活動力能を減少させることもある。したがって、共同体を無条件に肯定したり、過去の形に回帰したりすることが目標ではない。
問うべきなのは、どのような関係が互いの活動力能を高めるのか、どのような関係が一部の人の力を奪うのか、そして当事者たちがその関係を共同で問い直し、組み替えられるのか、ということだ。自由とは関係を持たないことではなく、自分たちを形づくる関係に働きかけ、その関係を通じて、より多くのことを可能にしていくことでもある。
結論:自由を再考する
自由とは、他者から解放されることなのか。それとも、他者との関係を通じて、自分たちの生き方をつくり変える力を得ることなのか。都市か田舎か、個人か共同体か、自由かしがらみかという二項対立を超えて、どのような関係が人々の自由と能力を増大させるのかを問うこと。そこに、釜沼という場所から共同体を考える意味がある。