友人から『地球の声』の感想が届いた。非常に面白かったという反応と共に、いくつか気になっている点を交換した。それは批判であり、友人の彼が直面している課題でもあった。
理性批判と、知ることの別のかたち
『地球の声』に対して、二つの批判があった。
ひとつは、論理で相手を打ち負かそうとする感じがある、というものだ。地球に声があることを認めない相手に対して、論理を組み立て、その前提を崩し、正しさを証明する。その態度自体が、ひとつの問題なのではないか。
もうひとつは、登場人物のほとんどが男性である、という批判だった。女性も登場するが、男性たちの議論を引き立てる役割を担っているように描かれている。世界について考え、言葉を与え、理論を構築する主体は男性に偏っている。
この二つの批判は、別々の問題のように見える。しかし、僕には、どちらも「誰が世界を語ることができるのか」という問いにつながっているように思える。
理性によって地球の声を証明する
「地球に声なんてない」という言説がある。
地球は話さない。植物は人間の言葉を話さない。山や川は、自分の意志を言葉にして伝えない。人間の言語を基準にするなら、これは正しい。
しかし、人間の言葉を話さないことと、何も語っていないことは同じなのだろうか。
この問いに対して、論理を組み立て、相手の前提を崩し、地球にも声があることを証明することはできる。相手が採用している声の定義を問い直し、人間の言語だけを基準にすることの限界を示せばよい。
しかし、ここには逆説がある。
地球の声を認めさせるために、相手を論理で打ち負かそうとする。そのとき僕たちは、相手の主張を支配し、正しさを確定するための道具として理性を使っている。
地球との関係を問い直そうとしながら、他者を論破するという態度を再生産してしまうのだ。
もちろん、理性や論理そのものが問題なのではない。論理によって事実を確かめ、誤りを指摘し、権力を批判することは必要だ。問題は、理性が唯一の審判者となり、相手を屈服させることが議論の目的になってしまうことにある。
ここで問われているのは、理性の正しさではなく、理性との関係なのだと思う。
知ることと、関係を結ぶこと
ロビン・ウォール・キマラーの『植物と叡智の守り人』は、この問題を考えるための別の手がかりを与えてくれる。
植物は、食料であり、燃料であり、建材であり、薬でもある。
人間は植物を利用して生きてきた。植物の生態を研究し、その性質を理解し、暮らしに役立ててきた。キマラーは、こうした科学的な知識を否定しているわけではない。彼女自身が植物学者であり、科学的な観察を重視している。
しかし、植物について知ることと、植物から学ぶことは同じではない。
植物の生態を説明できても、その植物とどのように生きるべきかは、それだけでは決まらない。植物が人間に何を与えるかを知ることと、その恵みに対して人間がどう応答するかを考えることのあいだには、隔たりがある。
キマラーは、科学的な知識と、ポタワトミ族に根ざした伝承や実践を結びつけながら、植物との関係を問い直す。植物から受け取るものを贈り物として捉えるとき、人間には感謝や節度、応答の責任が生まれる。
自然から何かを受け取ることは、単なる資源の取得ではない。受け取ったものを無駄にせず、必要以上に採らず、土地が再生できるようにする。そこでは、知識が行為と切り離されていない。
キマラーの思想から僕が受け取るのは、理性を捨てることではない。知ることを、関係を結ぶことから切り離さないという可能性だ。
地球に声があることを、論理によって相手に認めさせるのではない。植物との関係を実際に生き、その関係から何を学び、どのように自分の行為が変わるのかを描く。
地球の声をめぐる問いは、論証の対象であると同時に、実践のなかで引き受けられる問いでもある。
誰が世界を語る主体になるのか
もうひとつの批判は、登場人物が男性に偏っているというものだった。
女性も登場する。しかし、女性たちは男性たちの議論を引き立てる存在として描かれ、世界について考え、理論を構築し、言葉を与える主体は男性たちである。
これは、単に登場人物の男女比を問題にしているのではない。
誰が世界を語るのか。誰の経験が知識として認められるのか。誰の仕事が背景として処理され、誰の発言が思想として評価されるのか。
この問いを考えるとき、僕たちは知識を生み出すことと、生活を支えることのあいだに、見えない序列がつくられていないかを問う必要がある。
誰かが世界について議論している。その一方で、誰かが食事をつくり、子どもを育て、植物を育て、生活を維持している。
もし前者だけが思想を生み出す主体として描かれ、後者がその議論を支える背景に置かれるなら、世界を知ることと、世界を支えることが分離されてしまう。
ここで注意したいのは、理性を男性的なもの、ケアや感情を女性的なものと固定しないことだ。女性も理論を構築するし、男性もケアを担う。問題は、特定の知り方や役割が性別と結びつけられ、誰の知識が公的な価値を持つのかが偏ってしまうことにある。
キマラーの著作が示唆的なのは、植物学者としての研究だけでなく、家族から受け継いだ知識、母親としての経験、植物を育てる実践が、世界を理解するための営みとして描かれている点だ。
生活を支える実践は、理論の背景ではない。それ自体が知識を生み出す場所になりうる。
もちろん、キマラーの思想を女性の知性の代表として扱うことはできない。彼女の重要性は、女性だから特別な知り方をするということではなく、科学的な厳密さを保ちながら、科学だけを唯一の知識の尺度にしないことにある。
そして、誰が世界を語ることができるのかという問いを、知識の内容だけでなく、知識が生まれる場所や実践にまで広げていることにある。
二つの批判が交わる場所
理性によって相手を打ち負かそうとすることへの批判と、世界を語る主体が男性に偏っていることへの批判。
この二つは、どちらも、誰が世界について語る資格を持つのかという問題に向かっている。
論理的な議論を通じて、ある人が正しさを確定する。他の人々の経験や実践は、その議論の材料として扱われる。
この構図では、世界について語ることと、世界を支えることが分離される。理論をつくる者と、実際に暮らしを営む者。議論する者と、その議論を可能にする生活を支える者。
地球の声を認めない人々を論理によって打ち負かすことが目的になるなら、僕たちはこの構図を再生産してしまうかもしれない。
また、世界を語る男性たちの議論を中心に描くなら、世界を支えている人々や、人間以外の存在との関係を維持している人々の知識が、背景に追いやられてしまう可能性がある。
キマラーの贈与と互恵性の思想は、ここに別の可能性を開く。
贈与は、一方が他方を論破して成立するものではない。受け取ることと応答することのあいだに、関係がつくられる。その関係を維持するには、相手の存在を認め、自分の行為を変え、相手から学ぶ必要がある。
植物との関係も同じだ。
植物は、食料であり、燃料であり、建材であり、薬でもある。しかし、植物をその用途によってだけ理解するなら、僕たちは植物が人間の生をどのように形づくっているのかを見落としてしまう。
植物を育て、収穫し、食べ、藁を編み、屋根を葺き直す。こうした営みのなかで、人間は植物について知るだけでなく、植物との関係を生きている。
そこでは、植物は単なる議論の対象ではない。人間の行為を変え、人間の生き方に関わる存在なのだ。
地球の声を聞くことは、地球について正しいことを語る権利を獲得することではない。地球との関係のなかで、自分の生き方を変えていくことなのではないか。
世界を語ることから、世界との関係を生きることへ
この二つの批判を受けて、僕は『地球の声』という問いを考え直したい。
地球に声があることを、論理によって証明する。それもひとつの方法だ。しかし、それだけでは、地球を人間の認識の対象として扱う構図から抜け出せないかもしれない。
地球の声を聞くことは、論証の正しさだけで完結するものではない。人間以外の存在との関係を通じて、自分たちの行為を変え、暮らしをつくり直すことでもある。
同時に、誰が世界を語る主体になれるのかという問題を、理論の外側に置いてはならない。
誰の経験が知識として認められているのか。誰の労働が見えなくなっているのか。誰の声が、最初から議論の外に置かれているのか。
地球の声をめぐる問いは、人間社会のなかにある声の不均衡にも向かっていく。
僕が考えたいのは、世界を語ることと、世界との関係を生きることを、もう一度結び直すことだ。
理性を捨てるのではなく、理性を唯一の審判者にしないこと。知識を否定するのではなく、知識を実践や責任から切り離さないこと。そして、世界を語る人だけでなく、世界を支え、他の存在とともに生きている人々の営みを、知識が生まれる場所として捉え直すこと。
地球の声を聞くとは、地球について正しく語ることだけではない。
僕たちが、自分たちだけを世界の語り手とするあり方から抜け出し、世界との関係のなかで自分自身を変えていくことなのだ。