対立を解決することだけが、共に生きる方法なのだろうか。先日、僕のところにロビンが遊びにきた。彼女の話を聞く中で、僕は共に生きる難しさと希望の両方を感じた。
合意形成というイバラの道
ニュージーランドのアースソング・エコ・ネイバーフッドを立ち上げたロビン・アリソンの歩みは、共同体をつくることの希望だけでなく、その痛みも伝えている。彼女は、構想を描き、実現に向けて長く働いた当事者であり、建築家でもあった。しかし、共同体の内部で生じた役割や権力をめぐる葛藤のなかで、プロジェクトの建築家として拒絶される経験をした。『Cohousing for Life』は、共同体の成功譚であると同時に、そこで生きた一人の人間の傷つきと苦闘を含む記録でもある。
平等であろうとする共同体が、なぜ、その実現に心血を注いだ人を傷つけるのか。誰か一人に権限が集中しないようにすることは大切だ。しかし、権力の偏りを避ける仕組みが、必ずしも人を傷つけない仕組みになるとは限らない。ある人の強い意志は、周囲から見れば支配に映ることがある。一方、その意志を抑え込むことは、本人にとって自分の仕事や存在そのものを否定される経験にもなりうる。
合意形成は、ただ話し合いを重ねれば達成できるものではない。誰の声が信頼され、誰の言葉が警戒されるのか。どのような振る舞いが「民主的」と見なされ、どのような感情が場にふさわしくないものとして扱われるのか。そこには、明文化されたルールだけでは捉えきれない力関係がある。合意を目指すことは重要だが、合意の理想そのものが、誰かの痛みを見えにくくしてしまうこともある。
決着のつかない世界
この問いは、僕自身の暮らしにも重なっている。今年の春、地域の選挙で負けたのは、妻の梓だった。子育て世代の声を届け、地域を少しでも変えたいという願いをもって選挙に臨んだ結果は、2期目にして敗北であり、不満と落胆でいっぱいだった。そこには、単に結果を受け入れられないという気持ちだけではなく、自分が大切にしてきたものが届かなかったことへの痛みがあったのだと思う。
選挙は、決められた手続きによって勝敗を確定する。しかし、手続きによって決着がつくことと、人の内側で何かが決着することは同じではない。結果が出たからといって、なぜそうなったのかという疑問や、納得できなさや、悔しさが消えるわけではない。民主的な制度は結果を決めることはできても、その結果に関わった人々の感情まで整理してくれるわけではない。
怒りは、しばしば乗り越えるべき負の感情として扱われる。けれど、怒りのなかには、踏みにじられたと感じたものや、守りたかったものの痕跡がある。怒りをすぐに手放そうとすれば、その怒りが何を訴えているのかまで見失ってしまう。一方で、怒りを正しさの証明にしてしまえば、怒りは自分や他者を縛り続ける。怒りを否定することと、怒りに支配されること。その二つのあいだに、別の道はあるのだろうか。
火にゆだねる
その時期、僕らは鴨川の大山不動尊で護摩焚きをしてもらった。五穀を火に投じ、燃えていくのを見つめる。そこで僕は、不動明王がなぜ怒った姿をしているのか、少しわかったような気がした。梓の怒りや落胆を、不動様が代わりに引き受けてくれたようにも感じた。同時に、こちらが何かを叱られているようでもあった。慰められるだけではない。怒りをそのまま肯定されるだけでもない。その両方があった。
不動明王の忿怒の姿は、仏の慈悲が恐ろしい姿をとったものとして理解される。怒りは、慈悲の反対側にしか存在しないのではない。迷いや執着を断ち切り、救おうとする力が、穏やかさではなく、怒りの姿をとることもある。もちろん、人間の怒りがすべて正しいわけではない。それでも、怒りをただ抑え込むべき感情と見なすだけでは、そこに含まれている悲しみや願い、抵抗の力を受け止められない。
護摩焚きによって選挙の結果が変わるわけではないし、怒りが消えたわけでもない。けれど、僕たちだけで抱え続けていたものを、自分たちの外にある何かに託すことはできたのかもしれない。怒りを手放したというより、怒りとの関係が少し変わった。自分たちの正しさを撤回するのでも、相手を許したことにするのでもなく、決着のつかないものをいったん自分たちの手から離してみる。火の前で起きたのは、そういう経験だったのではないか。
土地に受け継がれてきたもの
大山不動尊が、昔からこの土地で不動明王を祀ってきたことを思うと、釜沼を含むこの地域には、深みがあると感じる。地域は、住民同士が仲良く暮らすための仕組みだけではない。そこには、人々が長い時間のなかで祈り、恐れ、願い、悲しみを託してきた場所や儀礼がある。僕たちがその歴史のすべてを知っているわけではない。それでも、いま自分が抱えている問題を、その場に持ち込むことができる。
現代のコミュニティづくりでは、対話や参加、合意形成、透明性といった理念が重視される。それらは必要なものだ。しかし、話し合いによってすべてを解決できるわけではないし、共同体の内部だけで処理しきれない感情もある。地域に受け継がれてきた信仰や儀礼は、そうしたものを解決する装置というより、解決できないまま持ち運ぶための場所だったのかもしれない。少なくとも、僕にとって護摩焚きは、そうした可能性に触れる経験になった。
未解決なまま、共にいる
内山節が論じてきた「全体」と「個」の関係を考えるとき、個人が全体に従うことだけが共同性なのではないし、個人が全体から自由になることだけが自立なのでもない。人は、自分だけでは完結しない関係のなかで生きている。その関係は、ときに支えとなり、ときに拘束となる。全体と個のあいだには、簡単には解消できない緊張がある。
共同体をつくることは、その緊張をなくすことではないのだろう。合意できないことが残る。誰かの怒りが消えない。ある決定によって傷ついた人がいる。それでも、すべてを決着させることだけを共にいる条件にしないことはできるだろうか。対話を諦めるのではなく、対話だけにすべてを委ねない。怒りを抑圧するのでも、怒りを正義として掲げ続けるのでもない。自分たちでは抱えきれないものを、土地や儀礼や、時間の長さに預けてみる。
未解決なまま、共にいる。それは、問題を放置することでも、対立を美化することでもない。解決を目指しながらも、解決できないものが残ることを認めること。そして、未解決であることを理由に、相手を共同の世界から追い出さないことだ。合意形成の理想が誰かを傷つけることがあるなら、僕たちは合意のあり方だけでなく、合意に至らないときに、互いをどう扱うのかも考えなければならない。
護摩の火の前で、不動様は怒りを引き受けてくれたようでもあり、僕たちを叱っているようでもあった。その二重の感覚を、僕はまだうまく説明できない。けれど、すぐに意味を確定させず、わからなさを残したまま考え続けることにも意味があるのだと思う。地域に暮らすことも、共同体をつくることも、きっとそういうことなのだ。すべてがわかり合えるから共にいるのではない。未解決なものを抱えながら、それでも同じ世界に居続けるために、僕たちは何を必要としているのだろうか。
参考として念頭に置いた本
Robin Allison, Cohousing for Life: A Practical and Personal Story of Earthsong Eco-Neighbourhood.
戸谷浩隆(ウェル洋光台)「未解決のまま、共にいる」
注
この本から影響を受けました。おすすめです!
https://www.well.yokodai.org/post/jp_book