僕が”地球の声”の文章を書いた時、何人かコミュニティのメンバーに先行して読んでもらった。激しく同意する人、扱うことの難しさや関係性の修復に気持ちが向かう人など、さまざまな反応が返ってきた。その中で、不敬さを問うような反応もあり、僕はそのことについて考えだした。
禁じられた問い
スピノザの『神学政治論』は、1670年に匿名で刊行された。聖書の解釈をめぐる自由、哲学する自由、そして国家と宗教の関係を論じたこの書物は、やがて禁書となる。そこにあったのは、単なる宗教批判ではない。信仰を守るために何を問うことが許され、何を問うことが許されないのか。その境界そのものを問い直す試みだった。
共同体には、共同体を成り立たせている前提がある。何を大切にするのか。どのような振る舞いが敬意とみなされるのか。何を口にすれば関係が損なわれると考えられているのか。そうした前提は、いつも明文化されているわけではない。むしろ、普段は問われないことによって、共同体の秩序を支えている。
哲学することは、ときにその前提を問う。だからこそ、哲学的な問いは、共同体の内側から見れば「不敬虔」と受け取られることがある。
書くことが不和を生むとき
『地球の声』を世に出したとき、これが共同体の不和を生むのではないか、関係を損なうのではないかという懸念があった。その懸念は、単純に退けられるものではない。共同体は抽象的な理念だけで成り立っているのではなく、日々の仕事や食事、気遣い、言葉を交わすことによって維持されている。ひとつの言葉が、実際に誰かを傷つけたり、信頼を揺るがせたりすることもある。
しかし、書くことが不和を生みうるという事実から、書くべきではないという結論がただちに導かれるわけではない。 問いを差し控えることで守られる関係がある一方、問いを差し控えることによってしか維持できない関係もあるからだ。
ここで問題にしたいのは、共同体を守ろうとする人々の姿勢を批判することではない。むしろ、共同体を維持することと、哲学することとが、同じ原理に従う活動なのかを考えたい。
維持すること、問い直すこと
コミュニティを維持することには、固有の知恵と倫理がある。相手の言葉をすべて正面から受け止めないこと。すぐに結論を出さず、時間を置くこと。正しさを主張するよりも、関係が続く余地を残すこと。共同生活には、問いを深めることとは異なる判断が必要になる。ときには、言わないことや、あえて曖昧にしておくことが、関係を支えることもある。
一方、哲学することは、既に共有されている前提を、その共有ゆえに正しいとみなさない。
何が善いのか、何が正しいのか、そもそも私たちは何を信じているのかを問い直す。問いの価値は、それがすぐに関係の維持に役立つかどうかだけでは測れない。場合によっては、問いを最後まで追究することが、既存の秩序を不安定にすることもある。
この二つは、単純に善悪で分けられるものではない。 コミュニティの維持は保守的で、哲学は批判的だ、と言いたいのでもない。共同体を守るためにこそ根本的な問いが必要な場合もあれば、哲学的な批判が独善や破壊に陥る場合もある。違いは、どちらが優れているかではなく、それぞれが何を引き受け、何を基準に判断する活動なのかにある。
哲学することと共同体を維持することは、異なる原理に従う。 だから、哲学を共同体の安定に役立つかどうかだけで評価することも、共同体を哲学的に正しいかどうかだけで裁くこともできない。
スピノザと「離接」の可能性
上野修によるスピノザ読解を手がかりにするとき、ここで注目したいのは「離接」という考え方である。『エチカ』『神学政治論』『国家論』は、同じ哲学者による著作でありながら、同じ問いを同じ仕方で扱っているわけではない。それぞれの著作が向き合う問題や思考の運びには、重なり合いながらも、ひとつに還元できない差異がある。
ここから、哲学と共同体の維持について考えるための手がかりを得ることができる。二つの活動を、より高次のひとつの原理へ統合するのではなく、異なるものとして保ちながら、そのあいだに関係を見いだすこと。 共通点を探して同一化するのでも、違いを強調して切り離すのでもない。つながりながら一致しないものとして捉えることだ。
もちろん、上野の「離接」をそのまま哲学とコミュニティの関係に当てはめられるわけではない。ここではそれを、異なる活動のあいだにある緊張を、無理に解消せず考えるための手がかりとして借りている。
不敬虔という名
「不敬虔」という言葉は、何かを侮辱したり、信じている人を見下したりする態度を指すように聞こえる。しかし、ある人々が大切にしているものを問い直すことは、それだけで侮辱になるのだろうか。信仰を持つことと、信仰について考えることは同じではない。信じることを尊重することと、その信念を問いに開くことも、必ずしも矛盾しない。
それでも、問いを発する人は不敬虔とみなされることがある。なぜなら、その問いが、共同体の人々が互いを信頼するために必要としてきた前提を揺さぶるからだ。問いの内容が正しいかどうか以前に、問うという行為そのものが、これまで保たれてきた距離や礼節を越えるものとして受け取られる。
不敬虔とは、必ずしも敬意の欠如ではない。むしろ、敬意を示すための作法がひとつしか認められないとき、別の仕方で向き合おうとすることが、不敬虔と呼ばれるのではないか。
異なる価値を同じ尺度に置かない
共同体のなかで生きる以上、問いの影響に無関心でいることはできない。言葉が誰に届き、誰を傷つけ、どのような関係を変えるのかを考える責任がある。哲学する自由は、他者への責任から自由であることを意味しない。
しかし、他者への責任が、共同体の安定を最優先する義務へと変わるとき、問いはその有用性によってのみ許可されるようになる。共同体に役立つ問いは歓迎され、共同体を揺さぶる問いは遠ざけられる。そうして哲学は、共同体の自己理解を補強するための道具へと縮減されてしまう。
反対に、哲学的な正しさを唯一の尺度にして共同体を裁けば、そこに積み重なってきた経験や、言葉にならない配慮、関係を続けるための技法を見落とすことになる。共同体の営みには、論証だけでは捉えられない価値がある。
必要なのは、どちらかをもう一方の下位に置くことではない。 哲学することと、共同体を維持すること。それぞれの価値を認めながら、互いに問いを投げかけられる関係を保つことだ。
緊張を解消しないために
共同体は、問いによって傷つくことがある。問いを避けることで、守られる関係もある。しかし、問いを避けることだけで維持される共同体は、自らの前提を問い直す力を失っていく。
反対に、問い続けることだけを正義とするなら、共に生きるための繊細な配慮を損なうかもしれない。
哲学することと共同体を維持することは、互いを必要としながら、同じ原理には従わない。 その緊張を、どちらか一方の正しさによって解消することはできないし、解消しなくてもよいのかもしれない。
不敬虔と呼ばれる問いを、ただ共同体への攻撃とみなさないこと。同時に、問いを発する側も、自らの言葉が現実の関係のなかに置かれていることを忘れないこと。相手を尊重することと、相手の前提を問い直すこと。その二つを同時に引き受けることは、容易ではない。
この問いを、すぐに解決しないまま持ち続けること。それ自体が、哲学することの一つのあり方なのかもしれない。